史上最悪のはじまりの言葉、あるいは屈折した空気の中の悪夢

史上最悪のはじまりの言葉、あるいは屈折した空気の中の悪夢



ぎぃ
ぎぃ
ぎぃ
ここは小さな箱庭。逃れられない小さな檻。
目の前には自分。虚ろな顔をした自分。
あぁなんておかしいんだろう、ここは自分の家だというのに空気が濃すぎて息ができない。
「お前の髪は私に似てとても綺麗だね」
お母さんが私の髪をさわる。
撫でるようにさわる、慈しむようにさわる。
「これだけ美しかったら、きっと大丈夫」
何が大丈夫なのかわからない。知りたくもない。
「綺麗な綺麗な髪、切ってはだめよあの人に捨てられる」
『あの人に捨てられる』がお母さんの口癖。
よくわからないお母さんの口癖。
『あの人』は誰だろうきっと父親だたぶんきっと。
だってお母さんにとって大切な人はお父さんしかいない。
月に何度かやってくるお父さん。
おかしなおかしなお父さん。
何度も何度もふれてくるのが少しだけ気持ち悪いお父さん。
この髪の毛がお母さんに似ているのだとすえば、私はお父さんのどこに似たのだろう。
お父さんの一体どこに似たのだろう。
「さゆりがいい子にしていればお父さんと一緒に住めるようになるからね」
笑いながらお母さんは私の髪をさわる。
鏡の中の私は無表情。
笑った顔なんてみたことがない。
お母さんは笑ってるのにね。
黒い黒い髪をお母さんがすいている。
綺麗に綺麗にされた髪はさらさらしている。
髪はきらきらしているのに、部屋がどんより曇っているから、歪すぎて気持ち悪い。
ここはなんて薄暗くて気持ちの悪いところなんだろう。
空気が重くて、息ができなくて苦しい。
必死に吸ってはいてようやく呼吸ができる。
だからかな、いつもお父さんがはぁはぁ言っているのは。
私もお母さんもこの家の空気は慣れてるけど、お父さんは慣れていないもんね。
「さゆりはキレイ。きっと美人さんになるわ。きれい、きれい、きれい」
ああ、なんて陰鬱で、歪で、可笑しな世界。
家から学校までの数百メートルだけが私の世界。
小さくて気持ちの悪い私の世界。
私の家が友達とこんなにも違うのは何が原因なんだろう。
一生懸命考えて、たくさん考えてみた。
でも答えはでなかった。
だけど近所のおばさん達が教えてくれた。

あの子は妾の子

妾がだめなんだ。
妾だからいけないんだ。
でも妾がどうしてなるのかわからない。
だから今度は間違い探し
妾じゃない子と私の家の間違い探し。
長い髪はみえちゃんも一緒だから関係ない。
兄弟がいないのはゆうやくんも一緒だから関係ない。
だったら一つだけ、他の子の家と比べて変なところがある。
とっても簡単、私の家にはお父さんがいない。
お父さんが毎日いない。
そうだ、これだ。
お父さんがいないことが原因なんだ。
空気の抜けた金魚鉢の中のような息苦しさはお父さんがいないことなんだ。
お父さんと一緒に住めば空気は良くなると思うんだ。
なんて簡単なことだったんだろう、この苦しさを抜け出す方法なんてこんなちっぽけなものだったんだ。
簡単、簡単。
だからお父さんと一緒に住めばこの澱んだ空気は消えて、換気もできてキレイになる。
きっと生活も楽になる。
お菓子も買ってもらえて、ごはんは毎日豪華な料理がでるんだ。
それで誕生日でもないのにプレゼントがたくさん貰えて
お母さんはキレイに笑うんだ、歪んだ笑顔じゃなくて。
旅行にも行って、遠いところに行くんだ。
そしてそして遊園地ではお母さんがはしゃぎすぎた私を見て
「あんまり遠くへ行ってはだめよ」と笑いながら言うんだ。
お父さんはその隣で笑っていて、手を振ってくれてるんだ。
くたくたになるまで遊んだら、お父さんが抱っこしてくれて、家まで帰るんだ。
そしてそのままベッドで本を読んでもらって寝るの。
なんて素晴らしい生活。
楽しそうだし、何よりこれからは「お父さんがいない」といじめられたりしないんだ。
そう、お父さんと一緒に住めれば何もかもが良くなる。
でも・・・お父さんと一緒に住むにはどうしたらいいんだろう?
わからなくて、首をかしげるとお母さんが「動いちゃだめ」と言ったので首を元に戻す。
お母さんはずっと髪をすいている。
ずっとずっとすいている。
お父さんと一緒にいるときは私の髪をとかすその手はお父さんにばかりふれる。
お父さんとお母さんは仲が良い。
だったら、そうだ。
お母さんに頼んでみたらいいんじゃないかな。
でも大丈夫かな、前に一度どうしてお父さんが家に住んでいないのか聞いてみたことがあるけれど
「お父さんにはもう一つ家があるから」
と言っていたから。
何でもう一つ家があるのかは知らない。
友達の家みたいに別荘があるわけじゃない。
だって私、行ったことがないから。
行ったことのない家、「連れていけない」と言われた家。
この家よりずっとずっと広い家。
一緒に住むことになったら、その広い家に住めるのかな。
お引越しすればいいんじゃないかな。
お母さんと私がお父さんのもう一つの家に行くの。
そしたらお父さんと住める。
一緒に、住める。
だからお母さんに頼もう。
お父さんと一緒に住みたいって。
お父さんと一緒に住んだら幸せになれると思うから。
きっと今よりずっとずっと幸せになれると思うから。
お父さんの家はきっと空気も澱んでいなくて、明るくて綺麗なお家なんだ。
その家でお父さんとお母さんと私の三人で暮らすの。
それは何て素敵なことなんだろう。
そうと決まったらお母さんに言わなくちゃ。
もっともっと幸せになる方法があるんだよって。
綺麗で明るい生活ができると思うって。
「お母さん」
「なぁに」
「あのね」
「なぁに」
どきどきしながら、わくわくしながら、間違えないように、ゆっくりとその言葉を言う。
「お父さんと一緒に住みたいな」

その言葉にどれほど後悔するか知らずに。