私の兄の話

それは昔々、私達がまだ生きていた頃の噺。



「よぉ、そんなところで何してるんだ?」
あれはよく晴れた日の午後、私が椿ねぇを待つために神社の階段で座っていたときのことでした。
目の前に急に人が現れたので私が驚いていると、その人は笑って私の頭を撫でました。
「ん?急に話かけられてびっくりしたのか?ごめんな」
「いえ、その、大丈夫なのです」
私がそう返すと、その人は私の隣にどっかりと座りました。
そしてちらりと神社の方を見た後、私の方に向きなおしました。
「椿は神社で作業中か?葵が待ってるってことはもうちょいしたら終わるんだな」
「……はい」
椿ねぇはその時確かに神社で作業中でした。
何かの祭事の練習と、衣装合わせだそうです。
まだ幼い私は入れられないとお付きの人に言われ、仕方なく私はこうやって外で待っていたのでした。
嘘をつく必要がないので素直にそう答えると、その人は「そっかー」とそこから立ち去ることもせずずっと座ったままでした。
他人が近くにいるということが凄く緊張する私にとって、その状態はある意味拷問にも近いものです。
かと言って椿ねぇがわざわざ私に紹介してくれた、椿ねぇの数少ない友人です。失礼はできません。
そう思って冷や汗をかきながらただじっと黙って座っていました。
そんな私の様子を気遣ってか、その人は私にあることを聞いてきました。
「そういえば葵って、俺のこと【あの】とか【すみません】でしか呼んだことないよな。何でだ?」
……なんでだ?と聞かれても、困りました。
何故なら特に表立った理由がないからです。
けれどまぁ、理由をあげるとすれば。
「呼び方が……わからないのです。年上なのに呼び捨て出来ないし、さん付も何か違う気がして……」
そうなのです。呼び捨ては出来ない、されど鋳太さんと呼ぶのも何か違う気がして、呼べないのでした。
でもまさかご本人に気づかれているとは思いませんでした。
私がその人を呼ぶ時は、仕方ない時だけだったので。
「なるほどなぁ。さん付は嫌か……かといって呼び捨ては俺はいいけど周りが煩いしな、んー」
私の言葉を受けて、その人が考えだします。
暑い日でした。流れる汗がぽたりぽたりと着物に滲んでいきます。
私は考えだして何も言わなくなってしまったその人を見るのをやめて、先ほどまでと同じく空を見上げていました。
この緊張感のある空間を早く抜け出して、椿ねぇに会いたいなぁと思いながら。
しばらく経って、セミの鳴き声がより酷くなってきて、あまりの煩さに違うところで待とうかと私が考え出した時でした。
「じゃあ、椿と同じく鋳太にぃってのはどうだ?」
その人が、妙な提案をしてきたのは。
椿ねぇのことは椿ねぇと私は呼んでいます。
何故椿ねぇと呼んでいるのかは覚えていません。
けれど昔椿ねぇに「私のことはお姉ちゃんだと思ってね」と言われてから、実の姉のように慕っているからだと思います。
神子である椿ねぇを「お姉ちゃん」とは呼べませんが、椿ねぇと呼ぶことは可能でしたから。
だからその人を「鋳太にぃ」と呼ぶのは違和感がありました。
だって彼は私のお兄ちゃんではないのですから。
そんなことを考えていると、その人は私の反応がないのに困ったのか、慌てはじめました。
「べ、別に好きでもなんでもない人間だから呼ぶのは嫌ーだったら呼ばなくてもいいぞ?うん。今まで通り袖を引っ張ってくれてもかまわないし」
どうやらその人は私が変な顔をしていたので、嫌われているのかもしれないと思ったみたいでした。
私はその人のことは嫌ってはいません。だって大好きな椿ねぇの友人なのですから。
けれど椿ねぇの友人を困らせてはいけない、と私が口を開こうとしたとき。
「でも、ほら。俺は葵のこと大好きだからなー?葵も椿も稲も大好きだから、俺が嫌うってことはないから安心しろ。お前も俺がちゃんと守ってやるからな」
そう言って、その人は私の頭にぽん、と手を置きました。
その手の温もりが暑い夏なのに何故か心地よく感じて。
その人の「守る」という言葉が何故かとても嬉しくて。
もしかして、これが兄というものなのかと思いました。
姉というのものは知っています。椿ねぇが教えてくれました。
姉は優しく妹の指標となり妹を守るものだそうです。
私が椿ねぇを守ると言ったとき、椿ねぇは優しくそう伝えてくれました。
いつも両親から神子様を命にかえてもお守りするように、と言われていましたので私にとっては不思議でしたが、椿ねぇは守るものができたことが嬉しいのだと言ってくれました。
稲は守るというより助け合う感じで、鋳太は守り役だから守れないとも愚痴っていました。
姉がそういうものだとしたら。
兄というのもこういうものなのかもしれない、と私は思いました。
だって私のことを大好きだと言ってくれて、私を守ると言ってくれる優しい人。
姉と性別がかわっただけだと考えればまさしく兄とはその通りの人でしょう。
「私のお兄ちゃんなのですか?」
しかしその時の私は幼すぎて、よくわからない質問をその人にぶつけてしまいました。
今思えば「兄のように思っていいのか」とか「兄代わりにしてもいいのか」とか聞きようがあるだろうと思いますが、語彙が少ない私にはそう聞くしかなかったのです。
「お?おお!そうだ!俺は葵のお兄ちゃんだな!椿は葵のお姉ちゃんなんだろ?なら俺は葵のお兄ちゃんだな!」
けれどその人は私の言葉を聞いて嬉しそうに頷いたのです。
照れながら、けれどとても嬉しそうに。
そんなその人の様子を見て、私は思ったのです。
そしてその言葉を自然に出したのでした。
「鋳太にぃ」
と。


「あらあら、私が仕事している間に、アンタ達随分仲良しになったのね」
お兄ちゃんが出来たということが嬉しくて、私が鋳太にぃ鋳太にぃと連呼していると、いつの間にか後ろに椿ねぇが立っていました。
椿ねぇは今仕事を終えたばかり、と言った体で、少し息があがっていました。
「おうよ!俺は葵のお兄ちゃんになったんだ、羨ましいだろ〜?」
「鋳太にぃ……っ!?」
階段の上に立っている椿ねぇに対して、その人は私をいきなり抱きあげて見せるように前に突き出しました。
私はなんだか恥ずかしくてじたばたと暴れましたが、その手の力が緩むことはありませんでした。
「なによ、鋳太がお兄ちゃんになるずぅーっと前から私は葵のお姉ちゃんなんだからね!」
ばっと、目の前に突き出された私を椿ねぇが奪い取ります。そのままぎゅうと抱きしめられて、私はどうしたらいいのかわからなくなりました。
「なんだよ、もしかして嫉妬かぁ?」
そんな椿ねぇの様子にその人はにやにやと笑いだしました。
笑ったその人を見て、椿ねぇはさらに怒りだし、ぽかぽかとその人を殴りはじめました。
「って……っちょ!おい!後ろ階段なんだぞ!?痛い!痛いって!」
「うるさい!もういっそそのまま落ちてしまえ!」
「お前それ神子が言う言葉か!?」
段々椿ねぇがその人を階段から押しやっていきます。
収拾がつかなくなってきた事態に私がオロオロとしていると、少し遠くからよく知っている声が聞こえたのでした。
「おやおや、喧嘩かい?楽しそうだねぇ。私も混ぜておくれよ」
……助けではなく、油を注ぎに来ただけでしたが。


そうして、私達はいつもの日々を過ごしていきました。
仲良く、四人で。
ずっとは続かない、その時を。
永遠だと思って楽しんでいたのでした。



「葵ー、お待たせー」
それから数百年後。
私はまた椿ねぇのお仕事が終わるのを待つために家の縁側に座っていました。
椿ねぇが襖を開けてお仕事が終わったことを教えてくれます。
「お疲れ様なのです」
そう言って私が振り返ると、椿ねぇは不思議そうに私を見ていました。
何だろう、と首を傾げていると、椿ねぇがつい、と私の顔を指しました。
「葵、何で泣いてるの?」
「え……?」
慌てて私が顔を拭うと、確かに袖は濡れていて、私は自分が泣いていたことに気づいたのでした。
「何か怪我でもした?それとも何か……」
「あ、ち、違うのです。ちょっと鋳太のことを考えていただけなのです……」
心配そうに私を見る椿ねぇに、違う違うと訂正すると、椿ねぇは「ならいいけど……」とあっさり引き下がりました。
私が鋳太のことを考える。それはどうしても痛ましい記憶とともに考えることになります。
最近はそう泣かずに済むようになってきましたが、今日は泣いてしまっていたようです。
だから椿ねぇもあまり深く突っ込んではきません。そうされると困ることを知っているからでしょう。
でも今回の椿ねぇは、何かに気づいたように首を傾げました。
「ねぇ葵」
「なんですか?」
「昔は鋳太のこと、鋳太にぃって呼んでたのに最近は鋳太って呼び捨てよね、別に悪いわけじゃなくて、単に疑問なんだけど。何でかなぁって。まぁたまに鋳太にぃって言ってるけど」
今思い出していた昔々のこと。私は確かにその人のことを鋳太にぃと呼んでいました。
だって彼は私のお兄ちゃんでしたから。
でも。
「私はもう鋳太よりだいぶ年上になってしまったのです。それに……もうお兄ちゃんだなんて、呼べないことをしてしまったから」
後半、声が小さくなってしまいます。
椿ねぇも皆も私のせいじゃないと言ってくれますが、私は確かにこの事態を引き起こした張本人の一人なのです。
彼が守るべき人を、守りきれないで殺させてしまうという大罪を犯した私は、もう彼を兄と呼ぶ資格はないのです。
あの人が、一番守りたかった人を。私は。
「そっかぁ……」
私が黙り込んだのを見て、椿ねぇは優しく私の頭を撫でてくれます。
椿ねぇはこんな私でもまだ妹と思っていてくれているのです。
椿ねぇと呼ばなくなったときの方が怒ったものです。
あの人もきっと……私が鋳太にぃと呼ばなくなったことを怒るでしょう。
それでも私は呼べないのです、鋳太にぃと。
「ほら、桔梗がこの仕事終わったら声かけてほしいって言ってたから早く行かないと」
椿ねぇが私の手をひいて母屋の方へと向かっていきます。
私は素直にその手についていきました。



今はもう遠い遠い昔。私にまだお兄ちゃんがいたときの、夏の日の話でした。