雨桜

それは昔々、私達がまだ生きていた頃の噺。

「今年もたくさん桜が咲いたそうですよ」
傍で座っている葵がふいにそう呟いた。
暇だろうからどこかに行っていてかまわないというのに、私が舞の練習をしている間傍にいると言って聞かない葵は窓の外をじっと見ている。
つられて窓を見るとそこには神社に植えられた桜が咲いているのが見えた。
「綺麗ね」
舞を止めて外を眺める。桜の花は今6分咲きと言ったところだろうか。
恐らく満開まで一週間もかかるまい。
「外の桜並木はもっと綺麗だと思うわ」
そう言って窓の外に手を伸ばすが、桜には手が届かない。
出来れば外の桜も見てみたいが、運悪く今は外の情勢が悪いらしく外に出られない。
私のことを知られないために情報が洩れそうになると私を神社に閉じ込めることはよくあることで。
それでも昔に比べたら傍に葵を置いてもらえる分寂しくはないのだけれど。
「こういう時、不便ね」
「大人は外で花見をしているのに、椿ねぇだけ見られないというのは不公平だと思うのです……」
私の呟きに葵が返す。
「仕方ないわ、そういうものだもの」
ため息をついてまた舞の定位置に戻る。
今はお目付け役が所要で席を外しているためこんなお喋りが出来るが本来は出来ない。
さぼっているのがばれたらどんなお小言があるかわからない。
葵は外を見るのをやめてじっと私を見ている。
少し気恥ずかしいが、舞というのは人に見られることも多いものだ、慣れるには仕方ない。
物心ついてから何度桜を見ただろうか。
美しい桜は私の心を落ち着かせてくれる。
この神社には私の神性を高めるためにと様々な植物が植えられているが、私はもっと外でのびのびと咲いている花を見たいと思っていた。
とんとん、と戸を叩く音がした。
はい、と声をあげると少しだけ戸が開いて世話役の一人が見えた。
「椿様、失礼します。葵に用事がありましたので……」
「何用ですか」
「葵に食事の準備の手伝いを、と」
「わかりました、葵」
私が目線を葵にやると葵がすっくと立ち上がった。
「行くのです。椿ねぇ、また」
ひたひたと私の傍を横切り、葵が部屋から出ていく。
たまに葵はこうやって世話役に呼び出されることがある。
葵は私の付き人ということで傍にいることを許可されているため、私に関することを色々覚えさせられていると葵本人から聞いたことがある。
舞の為の衣装の着付けや礼儀作法、今回は料理に関することでも教えられているのではないだろうか。
そのことを知って私は葵に無理しなくていいと言ったのだが、葵は困ったように笑って「椿ねぇといられる条件なのです」と言った。
相変わらず、このどうしようもならない我が身が憎い。
「さて、舞の練習の続きでもするか」
しーんとなった部屋。葵がいなくなっただけで温度が下がった気がする。
何というか……寒い気がする。
それでも前まではそれが当たり前だったのだからと舞の練習を開始した。


「おい、椿。いるかー?」
一人っきりで舞の練習をしているとき、また声が聞こえた。
今度は外からだ。
相変わらずお目付け役は帰ってこないので、ひょいと窓から外を見るとそこには鋳太がいた。
「あら珍しい。いいの、そんなところにいて。今は練習中だから怒られるわよ」
そう笑って言うと鋳太もにかっと笑って言った。
「どうせ今お目付け役いねーんだろ?だから来たんだよ」
「よくそんなところまでご存じで」
茶化して言うと、鋳太はほんの少し苦笑いをして私に何かを差し出した。
「何これ」
「桜の花だよ」
見たらわかるソレをわざわざ聞いたのは、何故それを私に見せるのかという意味だった。
「椿、しばらく神社から出れないんだろ?せっかく今年は綺麗に桜が咲いているのにもったいねーなって思って」
「もったいないけどこれも仕事だもの。それに桜だったら神社の庭にだって咲いているわよ?」
そう言いつつも外の桜を見たいなぁと思った。外で咲いている桜もきっと綺麗だと思うから。
「だからさ、お誘いに来た」
「お誘い?」
私がきょとんとしていると、鋳太は悪戯っ子が見せるような笑みで私にこう言った。
「あと四日で満開になるみたいだから、お前と山に桜を見に行こうかと思って」
「生憎だけど私外には……」
「だから、こっそり夜に連れ出してやるよ」
私の断りも聞かずに鋳太はさっさと続きを話だす。
夜に行こう、深夜ならばれない。準備はこっちで全部整えておくから、と。
「そんな計画上手くいくかしら?」
「まぁ失敗したらその時はその時ってことで」
「アンタねぇ……」
呆れかえった返事を私がすると鋳太は私に手に持った桜を押し付けてきた。
「これ、お誘いの印な!貴族みたいでかっこいいだろ?」
思わず受け取ってしまった桜を私がまじまじと見ていると、そのまま鋳太は走っていってしまう。
「あ、ちょっと……っ」
私が声をかける間もなく、鋳太は私の視界から消えてしまう。
「まったく、強引なんだから」
そう思いつつも、その約束が何だか嬉しくて、私はその桜の花をぎゅっと壊れないように抱きしめた。


「って、やっぱりこうなるのよね……」
あれから三日後、私は外を眺めていた。雨がざざぶりの外を。
実はこっそり楽しみにしていた約束。
その約束の日が明日に迫ったというのに、今日はざざぶりの雨だった。
これだけ雨が降ってしまえばほぼ満開だった桜の花は全て散ってしまうだろう。
せっかく久しぶりに外に出て外の桜が見られると思ったのに、とても残念だ。
夜までは晴れていたものの、深夜となった今になって雨がざざぶりである。
せっかくの私の期待が木端微塵になっていく様子をただ指をくわえて見ることしかできない。
残念だが、それも運命だろう、私の。
敷いた布団に横になってほんの少しだけ涙を流す。
こんな鳥かごの鳥みたいな生活をしているんだから、少しぐらいご褒美をくれたっていいじゃないか、そう一人ごちる。
明日はきっと神社の桜も散ってしまっているんだろう。
手のひらをそっとあけるとそこには約束の印の桜の花が一つ。
結局これが私が見る今年最後の桜と言う訳だ。
もっと見たかったなぁ、もう見れないならもっと庭の桜を見て置けば良かった。
そううじうじと布団で丸まっていると、ふいにこつんと何かが壁にあたる音がした。
「……?」
耳を澄ませてみるとそれはどうやら窓側の壁から聞こえるようで、なんだろうと窓に寄ってみるとそこには。
「お、起きてたな」
満面の笑顔の鋳太がいた。
「あ、アンタ!何でそんなところにいるのよ、今外雨なのよ!?」
「わっ大きな声出すなって」
口を鋳太の手に抑えられて、慌てて声の大きさを下げる。
幾ら外が大雨だとしても、あまり大声を出したら外で番をしている人に見つかってしまう。
「で、どうしたのよ?明日の中止でも言いに来たの?そんなこと言わなくたって今日これだけ雨なんだから……」
「違うって、今から行こうかなって」
「へ?」
「今から桜を見に行こうかなって」
あまりにも突拍子もない話に目を白黒させる。
「この雨だったら見に行こうとしていた場所は行けるから、今日行こうって思ってさ」
けれどそんな暇すら与えずに鋳太はにこにこと笑って私に言った。
「雨なのに?」
「雨だからさ」
「いいの?」
「椿が良ければな」
「じゃあ行く」
問答を繰り返して、鋳太に中止する意志がないことを確認すると私はうなずいた。
行きたかった。本音を言うとすっごく行きたかった。
でも雨だから無理だと思った。でも鋳太は来てくれた。約束を守るために。
雨だけど、ざざぶりの雨だけれど。
外の桜を見られることが私は凄く嬉しかった。


「おい、大丈夫か?」
「平気よ、このくらい」
あれから私の部屋の窓からこっそり抜け出して(棒が何本かあるのだが、アレは実は内側からだと外れるのだ)鋳太に連れられて近くの小山に来ていた。
途中まで真っ暗だったが、小山の入口まで来ると鋳太が灯りに火をともしてくれた。
「準備いいのね」
「当たり前だろ」
鋳太は私の草鞋や笠、蓑など全部一式用意していた。こんなのよく今日考えてすぐ持ってこれたなと思う。
手を引かれて小山を登っていくと、目的地はすぐそこで。
去年見た桜が満開になって咲いていた。
「……綺麗」
「だろ?」
感想を素直に口にすると、鋳太が満足そうに頷いた。
深夜の桜なんて見たことがなかった。
ましてやこんな雨の中の桜なんか。
雨風の中、そこにそびえる大木の桜はまるで水を纏う桜のようで。
ひらひらと散る桜がまるで雪のようだった。
夜中なのに、月もない中、その桜は何故かよく見えた。
散る姿を私達に見せてくれているように。
その姿は、壮大だった。
「ありがとうね……鋳太」
あまりにも綺麗で出てしまった涙をぬぐいながら鋳太に言うと、鋳太は「いいんだよ、これぐらい」と笑って言った。
その優しい姿が、私は大好きだった。
ずっとずっと大好きだった―――。


「ってことも昔はあったわよねー」
縁側に座り、そこから見える桜をじっと眺める。
次の日風邪ひいちゃったんだっけ、と思いながら。
「椿ねぇ?何か言いましたか?」
横に座っている葵が首を傾げた。
「ん?何でもないわよー」
そう告げてもう一度桜を見上げた。
あれから数百年。もう二度と同じ桜は見られないけれど。
あの雨桜だけは私は忘れない。
もちろん、あのとき傍にいてくれた彼のこともだ。